「福間 清子」パート1
小汀 泰久 | 2011.03.07
「福間 清子」さんは、私の小学校、中学校の同級生です。
私が、「今、最も尊敬する人」です。
今から5年ほど前にこの記事を偶然見て彼女の<近況>を知りました。
今は、学校もなくなっていますが出雲市立川跡小学校と逆にマンモス校
の一つになっている出雲市立第3中学校で<私の、一番のライバル>
でした。小学校3年頃から一緒に学級委員になったり、運動の部分でも
夏休みの書道大会、絵画コンクールでも、もちろん普段の勉強の部分
でも常にお互いに意識して<良き、ライバル>(少なくとも私は、そう思っ
ていました)でありました。
中学校になるとお互い部活に精を出して、福間さんは、体操部。私は、
野球部。勉強ももちろん頑張りましたが、多分彼女も体操部の活動は
勉強以上に意識を持っていたと思います。 お互いに2年生の夏には
<キャプテン>になっていました。 彼女は、その時に特に選ばれて
東京オリンピックの聖火ランナーの一人に中学校2年生(たぶん中2で
の選出は、他には無かったのではと思います)でなっていました。
当時、玉木富市先生(後に平田市の教育長)が3中の校長先生であり
JRC活動を推進され、トカラ列島の中学生との交歓事業(いまでいうホー
ムスティ)が推進されていました。彼女は、生徒会活動も熱心で深く関わ
っていました。 私の方は、中学校に入ると<野球に専念>して、
朝、体調が悪くて学校を休むことがあっても、2時頃になると<体がウズ
ウズ>してユニホームを着てグランドに行くという位「のぼせて」ました。
このHPにアップすることについては、2月5日に留守中に「福間」さんか
ら電話を頂戴しており、「また、こちらから連絡します」とのことでありまし
たが、ないものでその後1週間ほどして私から電話をしました。
昔話やら、いろいろと長話をしました。
彼女の「前向きな姿勢とわが身の状況を把握した上での介護、ボランテ
ィアの実践」が、小学校・中学校の時(約50年前)の一生懸命、一心不
乱に頑張ってきた姿とダブり、<私が、今できること>としてこのHP上
にアップすることを了解頂こうと手紙を差し上げました。 一週間ほど経っ
て 資料も合わせ<ご同意>を頂きました。 この題名を「福間 清子」
としたのもYAHOOで検索しますとトップページは、すべて彼女の項目が
ありましたのでご本人の名前にさせていただきました。
ちなみに1ページ目のトップ項目は下のURLです。
http://kinenkan.info/inpaku/kank/kank21.htm
これから、50年前のことを思い出しながら「私の尊敬する人」の紹介を
してまいります。