満福寺

満福寺

[出雲三十三番観音霊場]

満福寺イメージ

木次町より斐伊川沿いに上流へさかのほると西日登へでる。ここから能間を経て案内から日登へ向かうと左手の山麓に満福寺の仁王門と鐘楼門が見えてくる。この周辺は静寂そのものであり狭い石段を登って行き、古びた鐘楼門をくぐると正面に入母屋造リ赤瓦葺きの三間四面の観音堂が目に飛び込んでくる。
もともと満福寺は、神宮寺の格式をもち祈祷道場として日登へ鎮守したことから日登山と号し、天平十七年に行基が創建しており、仁王門の両尊<約2,2メートルの立像>と千手千眼観世音菩薩<約1,7メートルの立像>は行基の作で、特に本尊の千手千眼観世音菩薩は光背をいれると約2,6メートルもあり三十三年ごとに開扉される秘仏である。
かっては当寺より800メートルはど坂道を上った山上の一帯に十二坊という大伽藍を配し、毛利家の祈願所として僧兵を抱えており、二百石の寺領を有していたとある。
永禄十二年ごろ度重なる毛利と尼子の戦いに、ある時は毛利の三沢氏に通じ、ある時は止むなく尼子に便利を図って、寺の存立のために色々と万策を練ったのであろうが兵火にかかり焼失している。危うく戦火を免れた観音堂、持仏堂、仁王門、鐘楼門等が規模を縮小して現在地に移転をしているが、慶長六年に快香上人によって復興するまでは荒廃の年月を僅かに雨露をしのぐ程度の草庵で暮らし過ごしておリ、このころ寺の縁起寺録のの殆どが火盗の難に遭い紛失をしている。
また、宗教界の傑僧といわれた雲照和上の弟子であり、満福寺第二十二世住職の宣猷和上が、東京の目白僧園で雲照和上の助修をしておられたころ、宮中へ幾度か御修法に上がられた折り皇室から下賜されたものをはじめ、雲照和上、宣猷和上に関する数々の貴重な寺宝があり、これを収蔵するための宝蔵庫が帰依する人々の浄財によって落慶した。
 

<ガイド>
●宗 旨/高野山真言宗
●ご本尊/千手千眼観世音菩薩
●行 事/初護摩祈願会 1月1日
星まつり 2月3日
涅槃会  2月15日
大般若祈願法要 4月17日
十七夜祭 8月17日
●名 所/木次土手桜並木 木次公園 木次健康の森

御詠歌

くれてだに さとのなとえば ひのぼりの むろへまいれば つきぞさやけき

アクセス

島根県雲南市木次町西日登577TEL0854-42-1732